Column

世界に通用する強い馬作り───ジャパンカップ創設から四半世紀

果たして日本馬は強くなったのか?

日本の競馬の歴史を変えた5頭という問いかけがあった。種牡馬や競走成績、競馬観など着眼点によって選ばれる馬は変わってくると思うが、サラブレッドの強さとは何か、そんなことを考えるのにちょうどいい頃合かもしれない。

ちなみに、俺の一番好きなレースは断トツでJCである。

強さの象徴

シンザンシンボリルドルフ。「超えろ」という共通認識が定着するほど強さの基準として突出した評価を得ている存在はこの2頭をおいて他にあるまい。現在に至るまでルドルフより強いかもしれないと思える馬は何頭も現れたが、超えたと思える馬は結局のところまだ表れていない(個人の思いはともかく共通認識に至っていない)。その理由を俺はこう考えている。シンザンは初めてクラシック三冠と天皇賞、有馬記念の完全制覇を達成し、さらにルドルフは無敗で三冠を獲った。言ってしまえば八大競走を頂点とした価値観(*)の中ではこれ以上やることがないのだ。昨年の無敗の三冠も歴史的偉業であることを疑う余地はないが「すでにルドルフがやったこと」の焼き直しでしかないのも事実だ。

ルドルフが誕生した1981年、奇しくも日本競馬に新しい強さの基準が誕生することとなった。ジャパンカップの創設である。昭和50年代に入ると競馬界では「世界に通用する強い馬作り」が叫ばれるようになっていた。しかし多くの人にとって海外の競馬は未知の領域であり、また一部の先人による海外遠征の結果が芳しくなかったこともあって積極的にアウェイで走る理由を見出せずにいた。国際招待競走であるジャパンカップの創設により海外の競走馬と日本の一流馬の対戦が目の前で実現した。そこで世界の壁の高さを思い知ることとなった。

府中激震

1~4着を外国馬が占めたことももちろんだが、優勝したのはG1ホースでもないアメリカの5歳牝馬だったことがあまりにも衝撃的だった。しかも来日後キャンター程度の調教しか行わずに東京芝2400mのレコードをたたき出したのだ(軽めの調教は方針の違いなどで一概にやる気がないとするわけにいかないが、既成概念をぶち壊すには十分すぎる伏線だった)。日本勢は天皇賞の1、2着が1秒近く離されての6、7着。メアジードーツという現地では一流半の馬によって井の中の蛙であったことを自覚させられたのである。

七冠馬シンボリルドルフは八大競走至上主義と国際標準の中間に位置するサラブレッドと言えよう。旧来の価値観の象徴ともいえる三冠はあくまでも通過点でしかなかった。3歳時のジャパンカップこそ菊花賞から中1週の強行軍で3着に敗退したものの翌年は完勝、15戦13勝と国内の馬をまったく寄せ付けない強さも、デビュー前から「世界」を意識していた関係者にとっては予定通りのことだった。その無敵のシンボリルドルフも海外遠征初戦で惨敗した。このことがよほどショックだったのだろう、シンボリ軍団の海外遠征はシリウスシンボリを最後に今まで行われていない(例外は欧州でデビューしたジャムシード)。

反撃

水をかけられた格好の遠征熱だが、国際競争力の価値観は静かに、しかし確実に浸透していった。ジャパンカップは年々招待馬のレベルが上がっていったが日本馬も着実に上位を賑わすようになり、日本でやれば海外の強豪とも渡り合える自信を深めていった。象徴的なのは1989年ホーリックスオグリキャップによる世界レコードの競演だろう(ホーリックスはこの勝利でオセアニアの英雄となった)。

ホームでの活躍に気をよくし、1990年代後半になると再び海外遠征熱が再燃しはじめる。ハクチカラ以来36年ぶりの海外重賞制覇(*)は、三度に渡って香港に挑戦したフジヤマケンザンによって達成された。同じ海外でも香港に関する認識の低さで純内国産血統による偉業が過小評価されているのは残念としか言いようがないが、いきなり高いハードルに挑むのではなく身近なところから経験を重ねていくことは戦略として重要であり、現在香港は日本馬の海外遠征先としてすっかり定着している。念願であった欧州でのタイトルは1998年、シーキングザパールとタイキシャトルよってもたらされた。

セカンドインパクト

もうひとつ国際競争力に拍車をかけたのがマルゼンスキー(*)以降目立つことのなかった外国産馬の存在である。バブル経済で誕生した新たな馬主は、国内では庭先取引の横行により欲しい馬を手に入れることができず、新たに海外のセールに目を向けた。空前の外国産馬ブーム到来。1994年は10年ぶりの三冠馬とアメリカ生まれの怪物牝馬、2頭の無敵の快進撃の年となった。ヒシアマゾンの功績は重賞6連勝、有馬記念で三冠馬の2着、翌年ジャパンカップでもドイツ馬ランドの2着と外国産馬の強さを十二分に見せ付けたことよりも、頂点を決める争いであるはずのクラシックや天皇賞にどれほどの価値があるのか疑問符を投げ掛けたことだ。

こうした背景から1996年、外国産馬のフラストレーション解消を目的にマイルカップが創設されたが、皮肉にも再び府中に激震を走らせる結果となった。3歳春の若駒とは思えないタイキフォーチュンの走破時計はどんな雄弁な言葉よりも説得力を持っていた。

過剰な保護は競争力を衰退させる。条件付ながら外国産馬にすべての八大競走の開放されるのは2004年まで待たねばならなかったが(*)、結果としてそれでよかったのかもしれない。この縛りによって予期せぬ産物があったからだ。クラシックに縁がなかったオグリキャップのように。

頂点へ

海外遠征と外国産馬という2つのキーワード。その到達地点といえる存在がエルコンドルパサーだ。同世代のダービー馬との対決でもあった3歳のジャパンカップを制して最短距離で国内競走を終え、4歳の充実期をすべてフランスに長期滞在するという類を見ないキャンペーンは、海外4戦パーフェクト連対と凱旋門賞2着という大きな成果を得ることに成功、日本はもとより海外でも高く評価された。その結果手にした年度代表馬のタイトルは、日本の競馬そのものの価値を問う論争を引き起こすまでになった。また日本調教馬という言葉が多用されるようになったのはこのときからである。この論争は今もって明確な答えが出ていないが、強さの基準の要素に海外、それも凱旋門賞クラスという価値観が明確になったのは間違いない(*)。

そして今年、史上2頭目の無敗の三冠馬が凱旋門賞に挑戦。名種牡馬サンデーサイレンスの最高傑作も悲願達成に1馬身届かなかった。本気で凱旋門賞を勝ちに行くのであれば斤量差で有利とされる3歳のうちに三冠を捨ててでも挑戦すべきなのか。そこまでするだけの価値が凱旋門賞にあるのか。ディープインパクトは三冠と凱旋門賞、果たしてどちらの価値が高いのかを我々に問いかけているように思える。そしてまた、エルコンドルパサーの成功は当時まだ外国産馬には八大競走の出走権が無かったことも幸いしたと改めて気づくのである。

名馬の条件

メアジードーツの衝撃から四半世紀が過ぎた。すでに日本国内であれば外国馬に負けることは少なくなり、かつては雲の上の存在だった欧州最高峰のレースで勝ち負けできる強さがついに現実のものとなった。世界に通用する強い馬作りというジャパンカップ創設の目的は達成できたといっていい。では次の四半世紀、天皇賞と有馬記念という八大競走の狭間に置かれたジャパンカップの位置づけはどんなものになるのだろう。また今後、海外遠征のモチベーションは続くのだろうか。

それはどこに強さの価値を見出すのか、まさにその答えにほかならないと思う。

最後に───今後のJCの位置づけ

1999年のモンジューを最後に同年の凱旋門賞勝ち馬の参戦はストップしている。キングジョージ組はウォーサンが2年連続で参戦しているが超一流と呼ぶには一枚足りない印象で、ブリーダーズカップの覇者は2003年にジョハーが来日したが、同着優勝したハイシャパラルは不参戦。北米に関しては芝よりもダートが格上であり、またブリーダーズカップとJCの日程的な厳しさも考慮する必要はあるが、超一流と呼べる馬の参戦がめっきり少なくなってしまった。それでも昨年は前年の凱旋門賞馬バゴやBCフィリー&メアターフを制したウィジャボード、同年のバーデン大賞勝者ウォーサンの参戦があっただけずいぶんマシだったが、今年は執筆段階でハリケーンラン、シロッコ、レイルリンクといった欧州のトップホースは軒並み回避の見込みで、唯一前向きだった凱旋門賞2着馬プライドも英チャンピオンステークスを制すと一転して参戦は流動的である。むしろ同じアジアの国際招待競走でもジャパンカップより香港カップに出走馬が集まる傾向にある。理由は明白で、香港国際競走が参戦しやすい条件を備えているからだ。ジャパンカップよりも後に施行されるためブリーダーズカップ出走組も楽なローテーションとなるし、1000mから2400mまで距離の異なるレースを同時に行うため選択肢の幅が広い。さらに検疫も日本より緩いし、特にオーストラリア勢にとっては直行便のある香港のほうが圧倒的に調整が楽だろう。

このまま招待馬の質が下がればジャパンカップは有馬記念の予行演習程度のものになりかねないし、香港のステップにJCではもはや笑い話でしかない(すでにそれに近い扱いを受けているわけだが・・・)。では香港やブリーダーズカップのように異なる距離や出走資格のレースを増やせば解決できるかというと、今度はエリザベス女王杯やマイルチャンピオンシップ、やもすれば天皇賞までも位置づけが曖昧になるだけである。中山と阪神で行われている2歳G1を同日開催すれば日本のファンは喜ぶかもしれないが、若駒をはるばる海を越えて参戦させるかどうかは疑問である。

すでにジャパンカップは役目を終えたのだ。そして日本の競馬サークルは競馬体系と強さの基準を根本から考え直さなければならない時期にきていることに気づくべきだ。例えば東京と中山の開催を入れ替え有馬記念を招待競走として府中で施行する・・・そんな発想だってあっていい。それができないのは八大競走の呪縛から逃れられていないことの裏返しであり、また有馬記念の時期をずらせない興行上の思惑だろう。何にせよはっきりとした方針を打ち出さない限りますますジャパンカップが中途半端な存在になっていくのは間違いない。

脚注

八大競走
3歳限定の皐月賞、ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス(いわゆるクラシック競走)、天皇賞(春・秋)、これに人気投票の上位馬で争われる有馬記念は八大競走とされ、1984年にグレード制度が導入され、20以上のG1が存在する現在でも“別格”とされている。クラシックは種牡馬や繁殖牝馬の価値を高めるための選定レースと位置づけられているため現在でも騸馬(去勢馬)は出走できない。また天皇賞は1980年まで優勝馬は二度と出走できない勝ち抜け方式だった(「優勝馬が負けてしまっては陛下の威厳を下げることになる」というのがその理由で、「陛下から二度も下賜を受けるのは不敬である」というのは俗説)。このように八大競走は「選ばれた馬による競走」あるいは「選ぶための競走」というニュアンスが特に強く、それが格式の高さにもなっていると思われる。
ハクチカラ以来の海外重賞制覇
ハクチカラによる日本馬の海外重賞制覇は1959年、ワシントンバースデイハンデキャップ競走(アメリカ)。当時世界賞金王だった前年の年度代表馬ラウンドテーブルを破っての勝利は現地でも評判となった。ハクチカラは1957年年度代表馬で主な勝利はダービー、天皇賞(秋)、有馬記念。生涯成績49戦21勝(うち海外17戦1勝)。1984年顕彰馬に選出された。また主戦であった保田隆芳は現地でモンキー乗りを習得し帰国後も実践した。当時国内では鞍に腰を下ろす騎乗スタイルである天神乗りが主流だったが差は歴然で、たちまち他の騎手にも広まっていった。現在では普通に行われているモンキー乗りを普及させたのは紛れも無く保田の功績であり、ハクチカラの海外遠征はこちらのほうが意義があったとする意見も多い。なお公営出身馬初の海外遠征は1962年のタカマガハラで、ワシントンD.C.インターナショナルに出走し10着に敗れている。
マルゼンスキー
生涯成績8戦8勝、2着馬との着差が合計61馬身という突出した強さを見せた。外国産馬ではなく持込馬(母が受胎した状態で輸入され日本で出産した馬)であるが、1971年~1983年の13年間、持込馬も外国産馬同様クラシック競走などへの出走制限があり、また慢性の脚部不安のため早期引退を余儀なくされたが、現在でも日本史上最強馬として押す人は多い。G1級競走勝利がひとつもないノンタイトルホースで顕彰馬となった唯一の例でもある(種牡馬成績による選定ではあるが、マルゼンスキーを殿堂入りさせたい声が多かったのも事実である)。マルゼンスキー不在を理由に1977年のクラシックは二番手決定戦でしかないとの見方をされ、三冠の勝ち馬であるハードバージ(皐月賞)、ラッキールーラ(ダービー)、プレストウコウ(菊花賞)は種牡馬入りしても低人気で、マルゼンスキーの影に泣いた格好となった(2頭とも韓国へ輸出され、皐月賞馬ハードバージは使役馬として過労死、有馬記念を制した年度代表馬カネミノブに至っては行方不明)。保護政策が結果的に競馬人気や馬産に悪影響を与えた最たる例である。
八大競走の開放
天皇賞は2000年に2頭の出走枠が設けられ、続いてフルゲートに満たない場合に限り4頭まで出走可能となった。2004年には出走頭数に関係なく春は4頭、秋は5頭まで出走可能となり、2005年以降は国際競走となって外国調教馬も5頭以内で出走可能となり、同時に外国産馬の出走制限は撤廃された(完全開放)。2001年からダービーと菊花賞、2002年には皐月賞がトライアルの賞金獲得順に2頭までの出走枠が設けられ、牝馬クラシックも2003年に優駿牝馬、2004年に桜花賞に牡馬同様の出走枠が設けらた。2005年からクラシック全レースの外国産馬枠を4頭にまで拡大し、指定されたトライアルで3着までに入れば無条件で優先出走権を獲得できるようになった。2006年には全レースとも出走枠が5頭まで拡大され、2008年には7頭まで拡大される予定。なお開放以降、有馬記念を除いた旧八大競走を制した外国産馬は現時点でアグネスデジタル(2001年天皇賞秋)とシンボリクリスエス(2002年、2003年天皇賞秋)で、シンボリクリスエスはクラシックでも2002年のダービーで2着となっている。なお、有馬記念は1956年の開設当初からマル外の出走制限はないが、優勝したのはグラスワンダー(1998年、1999年)とシンボリクリスエス(2002年、2003年)の2頭だけである。開放直後に盾と有馬を連覇し八大競走を牛耳った外国産馬がシンボリの冠を擁いていることに歴史の妙を感じずにはいられない。
強さの基準の要素に海外
スピードシンボリ以前にハクチカラやテンポイントが「天皇賞と有馬記念を制したことで国内でやることがなくなった」ため海外遠征を計画し、エルコンドルパサー陣営も3歳でジャパンカップを制することで「国内でやることはなくなった」としている。しかしファンの間では「日本の頂点は有馬記念」という考えも強く、1999年の有馬記念に出走しなかったがゆえにエルコンドルパサーの年度代表馬を疑問視する声は現在でも多い(もっとも陣営は長期滞在を決めた時点で国内タイトルのことは念頭になく、騒いでいるのはマスコミとファンだけである)。オグリキャップがクラシックの追加登録制度を誘ったように、エルコンドルパサーはJRA賞選考における問題を露呈し制度を変えた(2000年度から記者投票全参加者の1/3以上の得票数を得て最多得票を得た競走馬については自動的に受賞とし、万一規定票数割れ、あるいは1位馬が同票数の場合は審査委員会の審議を行うように一部ルールが見直された)。